僕が好きな言葉がある。
If winter comes, can spring be far behind? -冬が訪れたのならば、春の遠い事があり得ようか?-
イギリス ロマン派の詩人パーシー・ビッシュ・シェリーの言葉だ。
意外と思うだろうけれど、彼の奥方のメアリー・シェリーは「フランケンシュタイン」を書いた人なんだ。知ってた?
何でまたこの場所で、僕は冬を謳うのか。それは僕が仕事と格闘しながら合間に皆とTRPGを通して遊んでいる時、冬を感じたからだ。拡散の冬。
何故、冬が訪れたのかについては議論の必要も無いだろう。季節があるのだ。例外なく、この場所にも。
そんな季節を感じるこの遊びの世界・・・というべきなのか、世界を具現化するゲームやカタチに真剣に向き合うと、ふとある日その事に改めて気がついた訳だ。
でも僕よりも余程その世界に身を置く皆は、形は違うとしても似たような事を一度は感じたのではないだろうか?
別に僕はここでTRPGが収束しているという事を謳いたい訳ではない。どちらかと言えば、自分が感じていることを再確認したいだけだ。
正直いって、僕は確かにかなり前からTRPGには距離が近かった。けれど、その遊び方といえば他と比較すればかなり衝動的な遊び方に偏っていて、例えばゲームシステム等に関しての取り組みに関しては造詣を語れるほど深くない。余程diceの他の面子の方が桁違いに遊び倒している。(笑)
でもゲームシステムを通して“遊びたい”という気持ちに関しては、皆と一緒のLvに在ると考えている。いや、人によって基準は違うかもしれないが、少なくとも僕はそう信じている。
そんな僕が、今こうやって何故不足を感じるのだろう。いや、不足という言葉は妥当じゃない。ちょっと加速が散漫なんだ。“遊びたい”という気持ちへの加速感。最近これが足りない。
さて、ここまで、そしてこれから述べる言葉を使うことが適当なのかどうかの論議は、ここでは脇に置いておく事にする。今日だけ、この場所は僕が呟く幕間の場所だ。
さて、僕はまだ修行中の身なのだが、所謂WebでHPを作ったりする様々な仕事に触れる事が多い。言い方を変えるとモノを作る企画を立てたり、実際に作ったり、時にはそれをプロデュースしたりする仕事だ。
そんな僕が日々を過ごしている時にちょっと感じたのが、以前に古い面子と一緒になってTRPGのサプリメントを作った時に感じた“感覚”と、Webの制作で相対的に感じる“感覚”に強い共通点を感じることだ。
それはユーザビリティとコンテンツ・ストラテジーだ。遊びの衝動に対しての使い勝手の良さ。視点の位置の問題なのだろうか、それが欠けはじめているような気がする。
今回はそのユーザビリティに関して、普段僕と非常に距離が近いWebの制作における視点を通して向き合いながら、僕とdiceの関係に関して文字にしてみたいと思う。
子供の頃、親が経営する会社が紙を使ったキーパンチの時代からMTやオンラインの時代に移り変わり、気がつけば自分の部屋にもMacintoshやPC互換機が置かれ、世代も狭いスタンドアローンやセグメントから、広い意味で広域で広義なLANやWAN・インターネットへと繋がり、静かにだが確実に移り変わってきた。これは単にテクノロジーの進化に合わせたある意味自然な時間の流れだともいえる。だが、僕的には実はそれだけではなく、そういった時間の流れに合わせて商品やサービスの在り方が、それに向き合う消費者の立ち位置というかスタンスまでもが大きく変わってきているのだと感じている。
昔・・いや、ある意味現在もまだそうなのだが、従来からの商品売買では消費者が実際に金を払ってモノを買うまでその価値や内包しているものには、殆どの場合一切手を触れることは出来なかった。特にアプリケーションやサービスの類が最悪だった。
そのものを利用する為に“マニュアル”を必要とし、終いには作り手側の理論そのものである“柔軟な理解力”を必要とする。利用する為に、我々が気長に根気強く製品やサービスにアプローチを続ける必要があったのだ。
Webはまだ四大メディア(新聞・雑誌・テレビ・ラジオ)になりきれていない。これは確実だ。だが前述した立ち位置の事柄に関しては、Webは非常に大きな影響を齎したと受け取っても差し支えないだろう。
これまでと大きく異なり、我々は製品やサービス等に手を触れる前にWebでそれに類する情報の海に潜る事が出来る。事前に学習するだけはなく、場合によってはそのものの効果を入手できるわけだ。これは、従来の対価の構造を打ち崩している。
現在Webに展開されている様々な情報は、どちらかと言えば四大メディア上で戦争の様に繰り広げられる結果に比べれば、テクノロジーを纏いながらもまだまだ陳腐で無力に近い。文章一つ読ませるにしても、文字を通して狙う効果的な手法は効果が薄い。まだまだ紙や本の方が、意識的な情報の伝達には効果的だ。視覚的効果に関しては、まだまだ以前のCGに対して皆が持っていた意外感を基にした驚きといったインプレッションのようなものから没入してしまうのだから、あまりにも芸術的過ぎる。
Webの世界ではユーザーが神様だ。ブラウザーを通してクリックして読み進む彼等に全ての権限は委譲され、サイトを通したマーケティング自体も、“彼等”に対して広く展開される。
サイトを企画/デザイン/構築する際、僕らはよくコンサル会社やクライアントと終わりのないコミュニケーションを繰り返す。“芸術性と操作性、必要性”を明確にしたペルソナ象を基に議論を戦わせる為だ。変な例えだが、そのノリは結果が全ての勝負、いわば最終戦争に近い。作り手側がサービスを提供する上で自身が組織として持つ総意を、コンテンツ・ストラテジーを形作る必要があるからだ。
サイトの構築は、古くからのアプリケーション開発やある意味前向きな商品企画における開発と同様の視点に立って作り始めると、ある意味非常に質の高いものを得る事が出来る。マーケティングに基づいて打ち立てた方法論を効果的に開発や構築に適用すれば、結果は時間に伴い確実についてくる。
だが、この本来は昔からのソフトウェアプログラムや製品の開発・構築工程の観点に基づいている極当り前の事は、実際にはかなりの確立で途中から忘れ去られることが多い。いや、忘れているというよりも当事者の立ち位置がスタートからあまりにもターゲットに近づきすぎて、視野にエッジが効く分、必要な広さを失うのだ。
ここで構築における完全なるルールへ立ち戻って作れといっているのではない。逆にそれを謳っている訳でもない。
本来マーケティングそのものの価値は、その先にあるはずだ。
僕らがメディアを通して出会う先駆者達は、優れた技術をカタチにして受け継いでいるだけではなく、今でもより優れた技術を紡ぎ出せている。それは、単に能力値が高いからだけではなく、物事に関して常識や非常識の匙加減を知り、自身のルールを破るべきマーケティング思想を無意識に勝ち得ているからだ。僕はそう感じている。
結果的に、これは前述したサイトの構築における“芸術性と操作性、必要性”の必要性へのアプローチになる。
では、芸術性や操作性へはどう歩み寄るのだろうか。
芸術性とは、ここでいうなら意識上の意外性に類似する“出会い”に近い。見た目をクールにしたり、綺麗さで抱擁することは必要だが、それはその後に続くものがあって初めて生きてくる。Webはそういった手段のチャネルが非常に多いから、どうしても表現に走ってしまう。これは誰にも例外は無いと僕は思っている。無論、僕もその1人なのだ。
芸術性は無意識にも働きかける重要なファクターだが、これを操作性に絡めるとなるとこれは非常に重要な問題になってくる。それはインターフェイスに影響するデザインには、操作性との共存が必要になるからだ。
では、そこでいう操作性とは何だろう?
古い表現をするのなら、確かなマーケティング理論に基づいて機能を反映したインターフェイスという事になる。
しかしWebは従来の製品・・・例えば本などの四大メディアと異なり、クリックするという大きな手段を持ちながらも同時にマウスやキーボードなどを使ってのユーザー操作-オペレーション-という大きな情報操作における入力要素を装備している。
この操作性に関しては、僕は前述した四大メディアにおける________例えば本や雑誌における体裁の違いのような、人がこれまでに選択に必要としていた五感に触れるある意味リアルな要素をまだ満たしきれていないと判断している。
つまり、WebにおいてHTMLやDHTML,JavaScript,Flash,ShochWave等を使って構築されてきたHPは、まだまだ本や雑誌、それにTVやラジオにおける個々のアイデンティティのようなものが我々の五感に触れ、意識して“利用”するに至るまでのリアルな要素が少ない。だからWebへの評価は市場で“今のような程度”で扱われているのだ。本来のWebのポテンシャルから考えれば、この評価はあまりにも低いと言うものだろう。
思い直してみれば、Webを通して作っている現状のモノは、これまで僕達自身が常識の様に持っていたものの価値観から大きく逸脱していると感じることが多い。
では、そのWebにおいて機能が全く同じ商品を手に取った際、選択の基準は何処へ移るのだろう?
その答えは明白だ。
Webに何かしらの構築に繋がる手段のチャネルを持っている人種は、もしかすれば現時点で個人的な好みや感応性に準じて選択する事は許されなくなりつつあるのかもしれない。選択に、小さくともマーケティング思想とその施策を反映した結果的手段を必要とする、実に強力で、自縛的な力が意識に働くからだ。
見た目の芸術性を格好良く作る事は、時間をかければ比較的誰でも容易にその結果をある程度のLvで得る事が出来る。
しかしながら“利用してもらう”事が目的であるなら、その要素だけではあまりにも非力だ。
コンテンツビジネスという理念が現在のWebビジネスへ持ち出されることは、その必然でもある。その辺りの議論に関してはここ2・3年の間に業界で巻き起こった出来事を推察すればその判例は幾つでもある。
だがコンテンツビジネスそのものを、豊富な情報とその選択肢といういわゆるポータルに構えて捉える事は、実は非常に難しい。多すぎる手段や選択肢は、時には物欲や知識欲などから生まれてくる選択への欲求を有耶無耶にしてしまう事が多いからだ。
では、その問題を解決する手段は何か? 僕は、その答えはユーザビリティとコンテンツ・ストラテジーにあると考えている。特に前者だ。
雑多に溢れた情報の海へのダイヴには、こと選択だけを捕らえるなら危険に満ちている。その問題に十分安全な経路を持たせるのが、インターフェイスであり、それは時には芸術性や操作性とのアンサンブルということになる。
ではその経路がシンプルであればあるほど良いのだろうか? しかし残念ながら実際にはその答えは、NOだ。
単にシンプルであるだけのものが評価されるのであれば、この世界にはブランドと言ったものすら生まれては来なかっただろう。ここではブランド論のような非常に複雑な話題は取り上げないが、それを僕らは自身の芸術性における興味や感応といったところで、無意識にそれを理解している。だからこそ選択を礎にした売買が生きているはずだ。
さて、ここまでこうやってユーザビリティをそれとなく紐解いて捉えてみると、その答えが実は明確な答えを持たないことに気が付きはしないだろうか?
それにだけ関して言えば、WebもTRPGもきっと同じだ。
だから、僕は答えは今は求めない事にしてみた。
でも、性格的に・・・恐らくきっとdiceの面子もそうだろうが、答えがわかっていて指を咥えて見ているのは性根から苦手な人種だ。
だから、僕は加速させてみたい。
サービスや製品に手を触れるユーザーそれぞれの中に、揺らがせる事の出来ない大きな要素があるのであれば、僕は敢えてそのベクトルの在り方を変えるのではなく、加速させてみたいと思った。
それを支えるのが、Webでいう“コンテンツ・ストラテジー”と“ユーザビリティ”だと僕は考えている。
でもそれは特別なことじゃない。出版の世界では、大きく形は変っているが、それこそ大昔から行われていた事だ。・・・作り手がそれを意識しているかどうかは、別の話になるが。
diceに参加したのは、その加速を生み出す人と触れ合う機会がとても多いからだ。
今まで色々な人達と出会って、別れて来た。でも今こうやって両手を伸ばして触れている人達は、とても自分自身に対して自慢のできる存在だ。
僕は皆に幾度も──記憶があやふやになるくらい、加速させて貰った。
だから今度は色んな形で、その加速させて貰った勢いが持つ引力で“加速”したい人に、その人だけが持つ重力と引力を思い出させたい。
そして僕等よりももっと凄い加速を得ている人達に触れられれば、それ以上楽しいことはないだろう。
だから僕等は、加速器になる。出来れば、奥歯を噛み締めて動くくらい距離の近い加速装置になりたい。
Entertainment Accelerator −エンターテイメント・アクセラレーター−は組み立てられてから、まだ一度もテスティングはしていない。
でも、待つのは苦手だ。
だから走ってみようと思う。一人でジョギングするのは苦手だから。
火を噴くのもいいだろう。煙に巻かれることもあるかもしれない。泥まみれになることもあるだろう。だが、これだけいるのなら、その悩みも人数分減るかもしれない。
今はそれに期待している。
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